「忍耐と慰めの源」  08.02.17
               ローマ 15:1〜6

 主イエスにつながっている私たちは、主イエスに倣う者として語り、
行うものでありたいと願います。主イエスは、誕生から十字架の死に
至るまでずっと、ご自分の満足をお求めにならない生涯をすごされ
ました(3節)。自分の満足を求め、自分の願いを優先しながら生きる
ことの多い私たちですが、主イエスによって、それとは違う「自分の
満足を求めない」生き方があることを知らされます。そして聖書は、
そのような生き方へと私たちを招くのです(1〜2節)。
 「自分の満足を求めない生き方」は、不満を抱えて生きることでも、
呟き、呻き、嘆きの中で苦行をしながら生きることでもありません。
 「隣人を喜ばせる」生き方のことです。隣人を満たそうとする
生き方によって、自分の満足だけを追い求める、狭く閉ざされた心から
解き放たれます。豊かな生き方、広い心へと変えられていきます。
 「隣人」とは、誰のことでしょうか。
 第一に、教会の隣人のことが考えられます。教会では、クリスチャンが
互いに心を向けあい、祈りあい、相手の喜びを求めることを大切にします。
教会員が互いに牧会をしあい、豊かな交わりを深めていくことは、
これからもなされていくことでしょう。
 第二に、教会の外の人たちも隣人となります。「良いサマリヤ人の話」
(ルカ10章)は、私たちに「あなたは、だれの隣人になるか」と問いかけて
きます。
 ところで、隣人のためになすべき「善」とは何でしょうか。
 それは、隣人が主イエスを信じて救われ、神の民とされることでは
ないでしょうか。ここで使われている「向上」と言う言葉は、主イエスに
つながる者として、教会を建てるという意味です。人格の向上というよりも、
主イエスとしっかりとつながっていくことです。
 人の救いのために歩まれた主イエスに倣う私たちが、隣人のために
なすべきことは伝道です。
 私たちは確かな救いの中に置かれていますから、自分の救いでなく、
隣人の救いに夢中になっても良いのです。